俳諧を愛した茶人、川上不白(前編)


ひとうたの茶席の2年目は、私、根本知が今興味を持っている俳諧を取り上げます。俳諧は「日常と離れた空間を持つ」という茶席のコンセプトとは外れるため、俳諧と茶席の結びつきを考えるのは挑戦的なテーマではありますが、連歌の流れから発展した俳諧の成り立ちを考えると、形は変わってもその心は受け継がれていたのではないか、その感性を現代の感覚でとらえなおしてみたいと考え、テーマを決めました。


俳諧を愛したお茶人として知られているのは、江戸千家の流祖、川上不白です。そこで江戸千家蓮華菴にて、川上閑雪宗匠とご子息、智大さんにお話を伺いました。


江戸の千家さん


根本(以下、知):まずは、江戸千家について教えていただけますか?


閑雪宗匠(以下、雪):川上不白は、紀州藩水野家の家臣、川上家の二男として和歌山の新宮に生まれました。熊野古道で知られているところです。15歳で江戸に出て、茶の湯と俳諧を学んだと考えられています。その後すぐに京都に上がって表千家の七代目家元、如心斎のもとで16年間修行した後、如心斎の「千家の茶を江戸に広めたい」という意思を継いで江戸に戻ってきました。


その当時の江戸の人口は、一説には約100万人、ロンドンやパリを超えて世界一だったとも言われています。その半数が武士でした。大阪は商人の町で40人に一人が武士と言われており、京都はお公家さんと町衆の町でしたから、全く環境の違うところにやってきたわけです。


その頃は徳川家による幕藩制のもと、武士たちはそのほとんどが、柳営と同じ石州流のお茶をやっていました。圧倒的な武家都市で、武家茶・石州流が全盛の江戸に京都町衆のお茶を持っていってもうまくいくはずがないように思います。しかし結果的に、千家のお茶は江戸っ子の関心を得て、広まることができたのです。


その主な要因としては、江戸っ子たちへの広まりと幕藩制の緩みがあったかも知れません。江戸幕府初期の頃とは違い、中期から後期になってくると、天下泰平の中で少しずつ自由な機運が出てきたのでしょう。あるいは、八代将軍吉宗が紀州家から初めて将軍になったことによって江戸中に紀州人脈が張り巡らされ、紀州人であった不白も、その一端に乗れたという可能性もあります。市井の江戸っ子たちに広まっていた、不白による千家のお茶を習う武家が出はじめて、やがては30人以上の大名が不白の門を叩きました。


後にはこれらの大名たちが、参勤交代で各々の領地に帰る際、江戸で習った不白のお茶を持ち帰ったり、あるいは不白の弟子を召し抱えて連れ帰った場合もあったようです。そうして京都の千家のお茶は、不白によって江戸から全国に伝播していくという道筋もあったのです。


知:江戸にお茶を広めていく中で、俳諧は何らかの役割を果たしたのでしょうか。


雪:京都から来たお茶は、はじめのうちこそ、やや気取ったお茶と受け止められたかもしれません。それを江戸の人に受け入れてもらうために、不白は様々な工夫をしたのだと思います。俳諧を通じた人脈が役に立ったことは間違いないでしょう。また、後ほどお話しますが、実際のお稽古に俳諧を用いたという記録もわずかに残っています。


江戸では、上方から来た優れたものは、「下りもの」と呼んでいました。江戸で受け入れられないものは「下らないもの」。不白の努力や時流に乗って、不白のもたらした千家のお茶が「下りもの」になれた、ということですね。


不白としては一流派を立ち上げたつもりはなく、師、如心斎の思いに報いるために努力したにすぎません。それが「江戸の千家さん」と言われているうちに、「江戸千家」と呼ばれるようになったのではないのでしょうか。




秋風に 乗りて帰ルや 東人


知:不白はどのように俳諧を学び、親しんでいったのでしょうか。


雪:不白がなぜ俳諧を知っていたのか、ということについては記録が少なく、現段階では推測するしかありません。茶の修行を進める中で俳諧がどの程度の割合を占めていたのかは、年齢によっても違ってくるはずです。


15歳で江戸に出てきた時、表千家堀内家の始祖として知られる堀内仙鶴という人ともつながりがあったと考えられます。俳諧師でもあり茶人でもあったこの人物は、不白に大きな影響を与えたことでしょう。


16年間の修行を経て、京都から江戸に立つ不白に、如心斎から餞別の句が送られたと伝わっています。


「秋風に 乗りて帰ルや 東人」


東人とは、もともと江戸から来た不白を指しているのでしょう。江戸に旅立ち、二度と帰ってこないかもしれないという状況での歌です。


知:さらりとした描写の中に、いろいろな想いが込められた句のように感じます。


雪:その頃は連歌の形式が普通でしたから、その句を発句として、不白が続く句を返したことも十分に考えられますが、それは史料には残っていません。ただ、この一句が不白にとって相当に重要な意味を持った句であり、その後江戸で茶を広めるにあたって常に念頭にあっただろう、という想像はできるのです。もうひとつ、七事式にまつわる句をご紹介しましょう。


知:七事式というと、花月や茶かぶきなどのお稽古のことですね。


雪:お茶人口が増えて、大勢の人を一緒にお稽古する方法として考えられたのが七事式です。お茶事でやることはまずない、お稽古のための稽古なので、とても難しい。如心斎は表千家の「中興の祖」として、茶の稽古の方式の一つである七事式を作ったことでも知られています。不白は、この七事式の制定にも深く参画したほど如心斎の信頼を得ていました。


これを京都から江戸に持ってきた時、気が早い江戸っ子たちに伝えるために、単純化した手法が必要でした。七事式のそれぞれに句を付けたとも伝わっています。こういった工夫も、俳諧が流行っていた江戸っ子に受け入れられた要因だったのでしょう。例えばこのような一句があります。


「活かへる 花を千種の 手向かな」


知:七事式の中でみなが花を活ける、「廻り花」を想定したのでしょうか。江戸っ子たちがこの句を通じて学んでいったのかと思うと親しみを感じます。



後編に続きます。


(文 山平昌子)