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俳人金子兜太の生地、秩父を訪ねて(前編)

昭和から平成にかけて前衛俳句、社会性俳句の旗手として活躍した金子兜太(かねことうた)さん。その生家、壺春堂を訪ねて、埼玉県秩父郡 皆野町にやってきました。根本知は、金子兜太さんのかねてからのファンでもあったことから、2019年5月に立ち上がった「兜太・産土の会 壺春堂再生・兜太記念館設立プロジェクト」で、「壺春堂」の扁額を揮毫しています。


現地では、金子兜太さんの甥である、金子桃刀さんにお話を伺いました。


根本 知(以下、知):こんにちは。今日はお時間を頂戴し、有難うございます。


金子 桃刀(以下、桃):こちらこそ有難うございます。


知:読者の方々にお伝えできるよう、壺春堂について、お話しいただけますか?



金子桃刀さん(左)


桃:はい、ここ壺春堂は、俳人金子兜太の父で、医師でもあった金子元春の住宅兼医院です。母屋が建てられたのは幕末から明治の頃で、繭産業が盛んだった当時は、屋根裏部分におかいこさんの部屋がありました。医院になったのは、元春がここで病院を始めた昭和元年と言われています。私の父は兜太の弟でここ金子医院を継ぎました。今は私が引き継いでおります。


金子兜太生誕100周年の2019年に合わせて主屋内装をリフォームし、カフェスペースも始めました。そのプロジェクトの一環として、根本先生にも扁額を揮毫いただきましたね。2020年には登録有形文化財の指定も受けました。


知:元春さんも俳人だったんですよね。


桃:そうです。元春は医師であり、俳人でもありました。小学校1・2年生の頃にお寺に修行に出された。ある時お寺の本堂からお経が聞こえて来て、寺のお坊さんが覗いてみると、元春がお経をすっかり覚えて読んでいた。「これは頭のいい子だ、お坊さんにするにはもったいない」ということで、お寺から返され、医者にしようということになった。そこで独協中学に行って水原秋櫻子と出会い、俳句の手ほどきを受けたのがはじまりと聞いています。


元春には「伊昔紅(いせきこう)」という号があり、そちらの方が有名です。でも私は若い頃、祖父や兜太の偉大さが今ひとつよく分かっていないところがありました。「伊昔紅」という号もね、「伊(こ)れ昔 紅顔の美少年」という漢詩の一節が由来だと知って、「こんなおじいさんの何が美少年なんだ」という風に思っているところがありましたから。


自分が医者になって東京警察病院に勤めた時、院長・副院長に呼ばれて「君は金子兜太の甥なんだって?」と言われてはじめて、祖父と伯父の影響力を知ったくらいです。


知:伊昔紅さんは秩父音頭の編纂をされたことでも有名ですね。


桃:秩父音頭はもともと地元で歌い継がれてきたもので、歌詞も節も何百というバージョンがあった。それを公募したり伊昔紅自身が描き直したりして、この地域の代表的な民謡として再生させました。


知:兜太さんは伊昔紅さんの影響で俳句を始めたんでしょうか。


桃:もちろん影響はあったでしょうが、反発もあったと思います。伊昔紅は毎月句会を開いていましたが、その後の酒宴で喧嘩が始まって、兜太の母は「兜太、俳句なんかするもんじゃないよ。あれば喧嘩だからね」と言ったと伝わっています。でも先輩に誘われて句会に誘われたことがきっかけで、俳句を始めました。


壺春堂は、元春、兜太、また関わりのあった俳人たちの資料を保存・展示しています。展示しきれていない物もたくさんあります。例えば兜太は日記をたくさん記していて、小さい頃の物も残っていますよ。


知:少し見せていただけますか?


桃:もちろんです。これなんかは、昭和4年とあるから10歳頃の日記ですが、大人のような文章だと思いませんか。


知:「ざーときうに雨がふってきました。ごろごろ雷がなりました。・・今日お父さんがうえたばかりのつつじに、雨がふりかけます」。このページすべて雨や風景の描写ですね。細かなところまで観察する視点や、文章表現の豊かさ、すでに俳人となる予感を感じさせますね。



桃:この「女中」も、きっと同じ頃だと思うんですけど、これこそ金子兜太、と感じさせる文章です。


知:「家の女中はもう十年以上もゐる」。家にいらした女中さんの話ですね。

「自分で自分の年を知らない。人に聞かれると『大きいお嬢様と同じです』と答へて、すましてゐる」。よく見ていたんですね。


「肥つてゐて顔もみにくいが平気だ。暇さへあれば近所の小さい子供を遊ばせて喜んでゐる。使にやればさんざん道草して帰って来る。」容赦ないほどの表現もありますが、きれいごとを嫌った兜太の俳句のスタイルにも通じる感性のようにも思います。ただ描写をしているだけなのに、兜太とこの女中さんの関係も自然に想像できますね。


桃:中の展示も見ていただきましょう。


知:おお、「一壺春」の扁額がありますね。

桃:そうです。伊昔紅が上海にいた頃、杭州に旅行にいった文人墨客の集まるところで、西湖の店の看板に壺春楼とあった。それが壺春堂の名の由来です。そのもととなった漢詩の一節「一壺春」を王一亭という書家に揮毫いただいたものです。



知:水原秋櫻子や加藤楸邨の句もありますね。

桃:はい、生前交流があった俳人の作品も展示しています。


知:「おおかみに 蛍が一つ付いていた」。兜太さんの代表作ですね。

桃:70歳後半あたりから、兜太は「産土」の大切さを感じるようになったみたいですね。生きものの存在の基本は土である、と、ここ秩父を「産土」と思い定めたようです。かつて秩父の両神(りょうがみ)山には狼がたくさんいて、明治の半ばに絶滅したと伝えられてはいますが、今も生きていると信じている人もいるようです。兜太の産土のイメージに、狼は必ず出てくるようですね。



知:庭の句碑も狼の句でしたね。「おおかみを龍神と呼ぶ山の民」。


桃:これも産土を詠んだ句です。土地の人たちがおおかみを龍神(りゅうがみ)と呼ぶと聞いて、両神山の名もそこから決まってきたのではないか、と考えたようなんですね。


知:軍服や、戦争関連の資料も多いですね。

桃:俳人としての兜太を作ったのは、伊昔紅の存在と、やはり戦争の経験が大きかったのだと思います。第二次世界大戦が始まったのは兜太22歳、大学に入学した年でした。その2年後、大学を繰り上げ卒業し、海軍経理学校を経て中尉となり、1944(昭和19)年、トラック島に配属されたのが、兜太25歳の時でした。壺春堂には、昭和18年の日記を記したノートの最終ページに書き留められた文章が展示されています。


知:父母を置き、友を置き、山河を置き・・・覚悟が伝わってくる文章ですね。戦地でも句会をされていたと伺いました。


桃:俳句会は、兜太の上司であった矢野兼武氏(詩人西村皎三。後にサイパン島で戦死)の発案だったそうです。兜太の属した主計科は会計や食料、衣服等の調達を行いましたが、その装備は脆弱で、多くの餓死者を出し、アメリカの猛攻撃を受けました。トラック島での経験のことを、兜太は後にいろいろな場で語っています。


2019年に、BS-TBSの番組で、蔵の中を捜索したんです。それまで手付かずだった蔵の中からいろいろな物が出てきました。その中に、兜太が伊昔紅に当てた手紙の裏に句が書かれたものも出てきました。その中に、代表句「魚雷の 丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ」も含まれていました。


(画像:壺春堂ホームページより)


知:有名な一句ですね。兵器である魚雷の鉄肌の上を蜥蜴が這い廻る。生々しく不気味な感覚が伝わってきます。


桃:生きるか死ぬかというぎりぎりの状況の中で、兜太が見た風景の生々しさがこの一句に現れているように思います。戦争の末期は、戦闘というより飢餓との戦いでした。多くの人たちが亡くなった。その経験を経て、こういうことが二度とない世の中にしなければならない、という気持ちが強まったのだと思います。終戦後、兜太は一年三か月の捕虜生活の後、1946年11月、最後の引き揚げ船に乗り、帰国しました。兜太は97歳の時、生涯の代表句として「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を置きて去る」を挙げています。


知:その後の兜太さんの俳人として、または社会的な活動の基礎となる体験だったんですね。


桃:こうした兜太の軌跡を、どうにかして伝えていきたい。壺春堂では定期的な句会も開催されていますし、最近では夏井いつき先生も来てくださいました。兜太が大変かわいがった、弟子の董振華(とうしんか)さんが兜太の活動を紹介してくださったり(「兜太を語る」)、最近又吉直樹氏が本を書いてくださったり(「孤独の俳句」)と、今も兜太を慕ってくださる方もいらっしゃいます。何しろ明治からの建物ですから、維持するだけでも大変です。ですがどうにかして、伊昔紅、兜太ゆかりの地として、これからもここを守っていきたいと考えています。


壺春堂を守る、「兜太・産土の会」のみなさん


後編に続きます。


(写真・文:山平昌子)







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