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俳人金子兜太の生地、秩父を訪ねて(後編)

皆野町の壺春堂から移動して、熊谷市にある兜太さんのご自宅に伺いました。(前編はこちら


根本 知(以下、知):壺春堂に続き、ご自宅でお話を伺いたいと思います。その前に、以前から気になっていたのですが、眞土(まつち)さんというお名前は、兜太さんがつけられたんですか?


金子 眞土(以下、眞):いえ、私の名前は兜太ではなく、祖父の元春がつけました。奈良の都から和歌山の隅田八幡宮へ使者を送る時、どの道を通るのがいいかと当時の陰陽師に聞いたのだそうです。そうしたら真土山を通れと言われた、という言い伝えから来ています。奈良県と和歌山県の県境にある山で、今も字名がある、万葉集の和歌にも詠まれている地名です。


知:そうなんですね。先ほど桃刀さんのところで産土の話が出たので、「産土」に由来するお名前なのかなと思ったのです。


眞:そこを通ることでよい知らせが無事に届くという意味合いの方を重視したのだと思います。もうひとつ、真土という言葉には「まね」と読ませる別の意味があるそうです。鋳型に溶けた金属を流し込む前に、内側に模様を彫るでしょう。そのために使う非常に細かい土のことを、「真土(まね)」と呼ぶそうです。



金子 眞土さん(右)


知:兜太さんの唱えた「造形俳句論」みたいですね。何かを見て感じた感覚をそのまま書くのではなく、一度自分の中に落とし込む、という俳句作りのアプローチですね。


「ひとうたの茶席」では子規の「写生」を取り上げました。「語る兜太」という本の中で、兜太さんは、「子規の写生と兜太の造形」という表現をされています。少し引用させて頂きますね。


「子規は、客観・主観というか、二物対応というのかな、作者一人のなかに集約する考え方じゃなくて、絶えず作者が自分の考えと、目の前にあるものと、主観と客観というものを対応させながら客観を描きとっていく、という考え方ですよね。つまり、基本的には二物配合、二物対立の考え方。(中略)ところが、私金子の考え方は、その二物を全部、自分のなかで一緒にしてしまう。どろどろに溶け込ませてしまう。それが映像だと。(引用終わり)」


この映像は、造形と同じ意味で使われています。見られる物と見る物を別のものとして扱うのではなく、どちらもすべて自分の中に取り込んでしまい、映像という形で提示する。それが兜太さんの唱えた造形俳句論だと思います。


この本の中で兜太さんは、子規の次の句を挙げていますね。

鶏頭の 十四五本もありぬべし

本当に徹底して写生をやれば映像になると付け加えてもいい、と言っています。これは面白いですね。


今私たちが兜太さんの言葉を追っていくと、眞土さんのお名前とどこかつながっているようにも感じられて不思議です。


金子兜太さんのお写真


知:眞土さんは、兜太さんに俳句の道を継ぐことを期待されなかったんですか?


眞:一瞬、そういうことを期待しているのかな、と感じた時期もあったのだけど、強制するということはなかったね。


兜太の母親であるはるの兄は、その時代隆盛していた繭商に勤めていたんです。だからその結婚に、経済的なことも期待されていた。ですが時代とともに繭事業が縮小し、経済的に苦しくなった後は、出戻ってきていた元春の姉妹たちの中で立場が悪くなり、大変な苦労をしました。端的に言うといじめられたんですね。それを兜太はずっと見ていた。そういった環境で、何かを期待することに対する抵抗感があったのかも知れません。それがいずれ、家父長制度を生んだ社会構造そのものに目が行くようになったのではないかとは思います。


知:そうした視点から東大の経済学部に入られたのかも知れませんね。そしてすぐに戦争でトラック島に行かれた。トラック島でのお話を、桃刀さんにも伺いました。


眞:こちらがトラック島で読んだ句の自筆です。


知:いい字ですね。兜太さんの「愛句百句」という本の表紙は、画家の中川一政さんが書いていますよね。


眞:尊敬していたし、意識もしていたんだと思います。50歳くらいまでのおやじの字は細いのですが、ある時から一政さんを意識して、こう、突っ込んだ字を書くようになっていきました。


知:僕も一政さんを尊敬していて、自身の著書「書の風流」でも一政を取り上げました。いくつか字を見せていただけますか。


眞:こうしたものがあります。


知:「白梅」。先ほどの字より、太くなりましたね。そういえば、兜太さんが初めて読んだのも白梅の句でした。「白梅や 老子無心の旅に住む」。


眞:高校の時、先輩の出沢珊太郎さんに誘われて初めて句会に参加した時に作ったものですね。梅の季節だったのでしょう。水戸のお寺に句碑も立っていますよ。


これなんかは、お正月に書いたもの。かわいらしいですよね。


知:なんとも愛嬌があって、かわいらしいですね。


兜太さんの文字として一番有名なのが、「アベ政治を許さない」ですよね。ステッカーやデモでよく使われたので、それとは知らず目にしている人も多いと思います。


眞:兜太は戦前の俳句弾圧事件の頃を知っていますからね。1938年の国家総動員法のあたりです。ホームレスなどの社会的貧困や、工場や炭鉱の労働者を詠むなど、花鳥風月だけでなく、社会的な主張を持たせた俳句が危険思想と見なされて、当時の俳人が検挙され、死者も出た。昭和15年2月、44名が検挙、拘留された「京大俳句事件」です。


知:今の人の感覚だと、俳句で警察沙汰になる、ということが信じられないですよね。


眞:そうかも知れませんね。その後、日本は戦争に突入していきました。安倍内閣の頃の特別秘密保護法や集団的自衛権の問題で、あの俳句事件を思い出すと、後に語っていました。



知:あの字はどういう経緯で書くことになったんですか?


眞:作家で社会活動家でもある澤地久枝さんと私の家内が交流があったんです。家内が澤地さんのファンでね。それで澤地さんと兜太がうちで会うことになった。澤地さんからその文字を書いて欲しい、と言われた時、父は一瞬、「どうしようかな」という雰囲気を作った。


その少し前までは、兜太は俳句の世界の中で生きていれば良かったんです。俳句の世界でイデオロギーを主張することは歓迎されないから、句づくりの中で明確に主張していたとしても、それ以外のところで使うことはあまりなかった。


それが黒田杏子さんと言う俳人と巡り合い、医師の日野原重明さんや社会学者の鶴見和子さんとの対談を通じて、だんだんと俳句の世界の外へ連れ出してもらった。そのことによって社会的な存在になり、俳人金子兜太として活動する中で、自分の考えを言える環境を獲得した。ただ、まだその頃は明確に政治に物を言う、というところまでの意思は持っていなかった。


知:そこに踏み出すというのは逆に言えば敵も作り出すことにもなりますものね。


眞:わずかな時間迷った末に、兜太はあの文字を描きました。


知:その後、国会やデモで使われて有名になりましたね。「安寧を増やさないから」と言って「安倍」という漢字も使わなかったと聞いています。その頃兜太さんは90歳半ばくらいですか。その年になったとしても、そういう強さが自分に持てるかなあ・・


眞:書斎もそのままにしてありますから、見ていただきましょうか。

知:有難うございます。

知:わあ、本当に今もいらっしゃるかのようですね。


知:広辞苑が・・

兜太の愛読書です。常に机の上にあって、使っていましたね。

知:まさに座右の書ですね。ちゃんと右側に置いてあります。

机の隣の神棚に向かって、毎日何十名もの物故者の名前を順番に唱えるのが日課でした。それを順番に全員唱えられるかどうかが健康の指標になっていたというかね。その中には戦争で亡くなった方のお名前もたくさん含まれていたと思います。


日記も、まめに付けていてね。こうして残っています。


知:俳句の草稿も残っていますね。


講演の準備のためのノートですね。兜太を思いつきで話している、豪放磊落なイメージを持つ人が多いかも知れないけれど、実際は講演を頼まれると、このくらい綿密に準備をしていきました。全部裏紙を使ってね。こうしたメモも、生前兜太自身が整理し、仕分けして保管したものです。



眞:もらってきた猫を2匹飼っていて、とても長生きしたんです。ここ、熊谷に猫がいるところということで、兜太はここを熊猫荘(ゆうびょうそう)と名付けていました。


知:熊猫・・パンダじゃないですか!


後にパンダを熊猫というと知ったみたいですよ。若い頃は執筆や講演で、家族と会話する時間は少なかったですが、晩年は家族や友人ともよく話しました。だからここに人が訪ねてくれることをとても喜んでいました。


こうして興味を持って来てくださる方がいる限り、父の句や主張を、自然な形でつないでいくことができたら、と考えているんです。


知:私も少しでも兜太さんの魅力をお伝えする一助を担えればと思っています。

今日は本当に、ありがとうございました。


代表句「曼殊沙華 どれも腹出し 秩父の子」(50代に揮毫)



(写真・文:山平昌子)

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