俳諧を愛した茶人、川上不白(後編)

初雪や せめて薄茶の 仕廻ひまで


知:ここで、ご子息である智大さんにもお話を伺いましょう。智大さんは、今年京都の大学を卒業されるということで、卒業論文に不白と句のテーマを選ばれたんですよね。


川上智大(以下、智):はい、「『不白翁句集』からみる不白の茶の湯句」という表題としました。


知:句を研究しようと考えたきっかけがあったんですか?


智:高校の時、「不白翁句集」という不白の句集があることを知りました。同時にこれまで句の研究が少なかったことから、「不白筆記」という不白の著書をテーマとするよりも新しい発見があるのかな、という思いがあって研究テーマとしました。


知:不白の句について、どのような印象を持っていますか?


智:茶席の最中に、今まさにその場で読んだかのような即興の趣があるということです。例えば、


「待合に ひとり増えたり ほととぎす」


という一句があります。茶席の待合の最中にほととぎすが鳴いた風情を歌ったもので、今読んでも、まさに自分が茶席にいるような風情が伝わってきます。また、


「初雪や せめて薄茶の 仕廻ひまで」


茶事の途中に降り始めた雪が、最後にお出しする薄茶の仕廻いまで続いて欲しい、という願いを込めた句ですが、風景が目に見えるようです。


知:とても美しい歌ですね。



俳諧のことば


雪:今日も不白の初春の句をかけさせていただきましたけれども、茶掛けにできるような形で不白はたくさんの書も残してくれています。ただ茶席の待合や、薄茶席には使えたとしても、濃茶席などのより重い式正の場では少し難しいように思っています。というのも、和歌と俳句は言葉が違う。


ブータンに茶会で訪れた折、あちらでは文字は仏様の言葉を書き留めるために生まれたものとして、非常に大切にされていると聞きました。その後、中国を経て伝わった漢字がやまと言葉になったわけですが、当時の俳人の中にも、平安時代には位の高い人しか使えなかった、やまと言葉に対するあこがれのようなものがあったのではないかと思います。


和歌のやまと言葉に対し、俗語というか一般的な言葉を使った俳諧が、同じように表具されたからといって、和歌と同じ床の間に上がれるかというと難しいのではないかと感じます。


知:俳諧は、古くは古今和歌集の雑体の「俳諧」の章に出てきます。「俳」という言葉は俳優の「俳」ですから、パロディ、モノマネという意味があって、和歌・連歌で使わない言葉に目を向けてあげる、かしこまらない日常の生活にも注目していくというような位置づけでした。それも時を経るうちに、だんだんと高尚なものになって言ったのです。


僕は仮名を専門としていますが、なるべく自分の言葉を使っていきたいと思っています。僕の生活の中から出てきた言葉は、俳諧の言葉よりさらに床に上がるのは難しいでしょうが、死んだ後にでも、どなたかが床に上げてくださるようなものを目指して書いていきたいとは思っているんです。



今、書は自分が一人で書いたものを、個展などの発表の場で見てもらうものになっています。それが一方向的な行為のように思えて、「一座」を持つお茶や俳諧の世界をうらやましいと感じることがあるんです。そのためにもお茶の人、歌の人の、場を作る感性が知りたい。


例えばお茶の世界で言われる「一座建立」は連歌・俳諧の世界に共通する部分を感じます。


雪:連歌会では、前の句に対して、自分の番が回ってきたら付け句をしないといけないので、傍観者ではいられません。お茶席でも同様に、当事者として関わっていくようなあり方が、本来のお茶席だったのではないかと思います。


音楽家も、コンサートで演奏することでお客さんからのフィードバックが力になる、というような表現をしますけれども、お茶の場合には、もっと直接的で、本来は観客というよりも共演者なんです。現在は主客の役割が分担され、特に大寄せ茶会だと、客というよりも傍観者になってしまっている気がします。


知:閑雪宗匠は、フルートの演奏もされるんですよね。


雪:昔の話です。ですが、クラシック音楽とお茶に共通する要素は随所に感じることがあります。音楽も、本来はその場にいた人にしか経験できないものでした。録音や配信の技術が進化して、いつでも音楽を聴けるようになったけれども、それは本当にその音楽を共有したことになるのかというと疑問です。今、どこに行っても皆さん綺麗に写真を撮って記録して、さらにはSNSにまで上げてしまう。スマートフォンやカメラのファインダーを覗いている間は、自分の目で見ていないわけです。だから私はカメラも好きですが、自分の目で見ることを大事にしようと考えています。


知:そういった記録媒体がない時代のことを、今、残った歌で想像できるのは素晴らしいことですね。


雪:その時に居合わせた人たちが、何を感じたかを本当に知ることはできないんですよね。特に記録には、発句だけしか残っていないことがほとんどですから。ですが、その歌から、想像を膨らませることは可能です。


知:その時々の感動を、日記や文章に書くという方法ではなく、歌という形にするという行為には特別な思い入れを感じます。文字数が限られているからこそ、即興性、臨場感が伝わってくるのではないでしょうか。


僕はこうして宗匠のお話を聞いたり、お茶会に参加させて頂いたりして、その経験を歌や言葉で書き留めていきたいのです。それを続けていくことで、そういった生き方をした私の書を、死後どなたかが床に上げてくださるかもしれない。私自身がこの世の者ではなくなった後にでも、書が軸として残り、座を建立する道具のひとつとして残っていくことができれば、それは書家として幸せなあり方のように思います。


ひとうたの茶席の2年目は、俳諧という切り口から茶人たちの感性に触れ、書家としての自分の道を深めて行きたいと考えています。今後とも、どうぞよろしくお願いします。


雪:こちらこそ。また教えてください。





川上 閑雪(かわかみ かんせつ) 

茶道江戸千家蓮華菴十一世家元

流祖 川上不白以来の江戸千家の道統を踏まえながら、現代生活の中での新たなる伝統の創造としての茶の湯を常に念頭に置きつつ 日々の修錬に励む。


座右の銘:

行住坐臥、常に一直心を行ず(六祖慧能禅師)

本立てて 時々の自由自在あるべし

               (川上不白)

『 川上不白の茶』 (共著)

         (平成2年7月、講談社刊)

『川上不白の茶の湯』

(平成9年7月、江戸東京博物館

「遊びと求道の心」展図録所収)

『新世紀の茶の湯』

(「江戸千家の茶道『孤峰』

平成13年1月〜平成14年6月

(財)江戸千家茶道会刊所収)他





川上 智大(かわかみ ともひろ)

令和4年3月 同志社大学 文学部国文学科卒業

卒業論文は

「『不白翁句集』からみる不白の茶の湯句」


伝統文化が軽んじられている現代において、流祖不白が遺した茶の道をどのように継承していくのか、日々考えながら修行に励んでおります。















(文 山平昌子)