ひとうたの書(一)書は葉のように

毎回ご紹介している書について、書家の根本知さんにお話を伺いました。


山平昌子(以下、昌):今日は、根本知さんに、ひとうたの茶席の作品で使われている書について、お伺いしたいと思います。


根本さん、宜しくお願いします。


根本知(以下、知):宜しくお願いします。


昌:この連載をはじめて作品を拝見しているうちに、どの字も読めないながらに、字の感じが違うな、ということに気が付きました。ふんわり丸い字や、鋭く尖った感じの字があるな、と。どのようにそれぞれの作品の字を書いているのか、お聞かせいただけますか?


知:それぞれの作品のお話の前に、まず仮名についてお話した方が分かりやすいかもしれませんね。そこから始めましょう。


昌:はい、お願いします。

知:仮名は中国から入ってきた漢字を日本で独自に崩していった文字ですから、ひとつの音に対して、複数の字があるんです。例えば、「あ」という音ひとつとっても、元となる漢字はアジアの亜、安全の「安」、阿部さんの「阿」など、いくつかあります。「悪」でさえ、意味としては良くないけれど、形がふさわしいと判断して使う場合もあります。この、仮名の元となった漢字を字母と言います。当時は、自分や誰かの歌を表現したい時に、ひとつの音に最もふさわしい仮名を当てたいという欲求があって、一音一字では足りなかったんでしょうね。


戦後、音に対して字はひとつ、という教育になりましたが、現代に生きる僕が平安の仮名文字を書こうという時には、一度平安時代にタイムスリップするというか、その当時の人の感覚を想像しないといけないんですね。


昌:当時の人がある歌を表現する時、どの字母から来た仮名を選びたいと思っただろうか、ということですね。


知:そうです。それに加えて、日本の書は字のつづけ方や全体の配置でも歌の心を表現しようとしましたから、どのように書くのかも重要なんです。そこで何の字母の仮名文字を使ったらよいかと配慮し、さらに文字のかたちにも趣向を凝らすことを、ここでは「書風」と呼ぶことにしましょう。


昌:その時の気分で自由に書いているわけではないんですか?


知:自分の字として確立した書風で書くこともありますし、書の世界で古典とされているものから選んで、それ風に書くこともあります。


かな書道を勉強するすべての人が通らなければいけない古典、というのがいくつかあります。僕は14歳から かな書の世界にいますが、もちろんそれを勉強してきました。


この連載のお話を頂いた時、歌の意味と紐づけながらそれぞれの作品の書風をあえて変えていくことで、もう一度自分の中で古典の基礎をさらいなおしてみよう、と考えたのです。それが個人としてのこの連載の、裏テーマでした。



昌:かなの古典とは、どういうものがあるんでしょう。


知:「高野切」や「関戸本古今集」などがありますが、ここでは各古典について触れるのは止めておきましょう。古典は、その古典特有の雰囲気というか、エネルギーを持っています。指導者になった時、そのエネルギーを、明快に、なるべくシンプルに伝えるのはどうすればいいか、と考えた時、ああ、葉っぱの線だと思ったらいいんじゃないか、と考えたんですね。


一文字を大きく書くような漢字の書は、咲き誇るようだったり、枯れていくようだったりする、花のイメージに重なります。一方かなの書は一文字では成立せず、何文字かを組み合わせて一体となって作品となっていくため、花のイメージとは少し違う。では何だろう、とよく眺めてみると、「あ、もしかすると葉っぱの方に近いのかも知れない」と思い至りました。例えばゴムの葉っぱは硬くて大きい。柳の葉っぱは細くてしなやか。針葉樹は硬く尖っている。全部葉っぱなのに、生きるための形が違う。その見方が、それぞれの古典のエネルギーを表現するのに分かりやすいのではないかと考えたのです。以来、生徒さんに教える時にも、自分が書く時にも、葉っぱのイメージが常に念頭にあります。


昌:そう言われてみると、いろんな個性を持った草が伸び伸びと生えているようにも見えてきますね。



知:もう一度おさらいすると、かな古典における書風というのは、どの字母を持つ仮名を選ぶか、どのような形で書くか、またそれらをどう繋げて、紙という空間に配置しているのか、を含んでいる、ということなんですね。


昌:それらが個性ある葉っぱのように、それぞれの固有のエネルギーを持っていると。


明日は、それぞれの作品を見ながら、書についてお話いただきます。