top of page

安曇野に岸野さんを訪ねる(前編)

昨年11月の半ば、安曇野にある岸野さんの工房を訪ねました。当初は華道家の平間さんも同行の予定でしたが、新型ウィルスの感染拡大を考慮し、山平夫妻での訪問となりました。


はじめまして


山平 昌子(以下、昌):

はじめまして。オフラインでお会いするのは初めてですね。ずっとオンラインミーティングでしたから。


岸野 田(以下、田):

はじめまして。ようやくお会いできました。


昌:これまで送られてきた表具で想像するばかりでしたが、せっかく仕事場にお邪魔したので、どんな風に表具を作ってらっしゃるのか、教えて頂きたいと思ってやってきました。たくさん裂地がありますね。


田:はい、一応種類で分けているのですが、こちらの方は比較的現代のもの、こちらの方が古いものです。


昌:新しい裂地は、よく見慣れた感覚というか、ぱっと見て綺麗!と感じますが、古いものの裂地の方がじんわりと見えてくるような美しさを感じますね。織や染めのことはよく分からないけれど、昔のものほどとても手が込んだ感じがします。


田:うちは裂地から選んで軸を作ることもできるんです。裂地を見に来られた方は、はじめのうち「どう選んでいいか分からない」とおっしゃいますが、そのうちだんだんと真剣になって、1時間以上見ていらっしゃいます。



昌:こういった裂地はどうやって入手するんですか?


田:古裂屋さんを覗いては集めています。表具裂は問屋さんからも買いますね。


昌:一尺というのが・・


田:約30cmです。


昌:これは一尺2000円だからこの長さあるとすると・・。計算はしないでおきましょう。原材料費もかかりそうですね。


田:古くて質の高い裂地はなかなか手に入らないので、見つけたら集めるようにしています。いつ使うか分からないこれらの材料を、持っておくのも仕事のうちだと思っています。




大学時代


昌:この企画を初めて、字を書くことや花を活けるということだけを生業としている人がいるということを改めて認識しました。もっとも馴染みがなかったのが、表具師です。いったい、どんな人がどんな流れで表具師を目指すのだろうと。


田:そうですよね。一般の人にはなかなか想像しづらいのではないかと思います。


昌:そもそも最近まで、大学に書道学科というものがあることすら知りませんでした。


田:高校を卒業したら、とりあえず大学には行かなければいけないという思いはあったものの、どうせ行くなら身に付くものの方がいいと思っていました。父が絵描きということもあり、普通に会社に行くという人生がイメージできなかったんです。それに昔から父に、「表具師になれ」と言われていました。でも表具師の修行って何をするのかも分からないし、怖いしで、とりあえず大学に行こうという消極的な考えで受験しました。


昌:田さんの通われた大東文化大学は、私には駅伝のイメージしかありません。


田:大東文化大学の書道学科は、比較的新しいんです。若くして賞をたくさんもらっているような、いわば書道のエリートが行くところです。僕は週1回、近所の書道教室に通っていただけでした。


入試の実技試験のことは忘れられません。みんな筆巻きをざらーっと広げて、何本もある筆の中から、最適な一本を選んでいるんです。僕には、小学生が書道教室に行く時に持つような書道バッグの中の、小筆1本しかありませんでした。


昌:周りの人は、技を極めた達人と思ったでしょうね。


田:実際はその逆です。道具のことなど何も知らなかったんです。


ある男子学生がさっと手を上げて、「僕はいつも立って書いているので、立って書いてもよろしいでしょうか」みたいなことを言ってから、立ち上がってさらさらと書き始めたのにも驚きました。なんか来ちゃいけないところに来ちゃったな、と。


昌:でも合格した。


田:絶対に落ちた、と思っていたのに、補欠の補欠くらいで合格しちゃったんです。




昌:大学生活はどんな感じでしたか?


田:周りの学生が話している内容も、読んでいる本も、難しすぎてついていけない感じでした。和敬塾という学生寮で、映画の話をしたり、飲み明かしたりと、他大学の学生と遊んでいる方がずっと楽しかったです。ただ、作品鑑賞の授業でも、字そのものより表具の方に目が行くようなところは、あったような気がします。


3年生の時、実技のゼミでお互いの作品を並べて鑑賞するというような機会がありました。その時、他の学生の作品の中に囲まれた僕の作品だけ、子どもの字のように見えたんです。それ以来、心底字を書くことも嫌になって、好きな授業以外はほとんど行かず、休学状態になりました。


今だったら考えられないことですが、4年生の年末に、微熱がある友人としばらく遊んだ数日後、高熱が出て動けなくなりました。病院に行ったら、レントゲンに映る肺が真っ白で、「あと2日遅かったら、命が危なかったですよ」と言われたんです。12月25日でした。


病院のベッドの上で、「もう仕方がないから、表具の修行をしてみよう」という気持ちが生まれたんです。


昌:おお、やっと。




写真:山平 敦史

文:山平 昌子



明日は、表具師になることを決めた岸野さんの、その後のお話です。

bottom of page